2005 [9th] Japan Media Arts Festival Device Art Symposium "Will Techno Gadgets Become an Art?"
Panel Discussion "Will Techno Gadgets Become an Art?"


平成17年度(第9回)文化庁メディア芸術祭
デバイスアート・シンポジウム「テクノガジェットはアートになるか?」

パネル・ディスカッション「テクノガジェットはアートになるか?」
2006年3月2日@東京都写真美術館


草原:最後には新型掃除機まで実際に登場しましたが、モリワキさん、ありがとうございました。さて、議論できる問題点がいっぱい出てきたのに、残り時間があまりないのが残念ですが……どこからいきましょうか?

 例えば先ほど八谷さんが「量産品はアートそのものにはならない」あるいは「それを無理にアートと呼ばなくてもいいのではないか」とおっしゃいました。また、今のモリワキさんの「アーティストが商品開発まで直接かかわる」という話や、クワクボさんが言っていた「欧米に行くとゲームをベースにした作品は、なぜか子供しかやらない」というような文化的な違い、あるいは岩田先生が最初におっしゃっていた「インタラクティブ作品は体験してナンボである。ではどうやって、その体験をさせるか?」とか、様々な問題提起が出てきたと思います。今日は論客が揃っているので、何か言いたい方は、即、お願いします。


3.1●高級ファッションとしての“デバイスアート”?

八谷:土佐君とモリワキさんの作品に通じるところ……として、それらは一種のファッションであると僕は思うのですが。土佐君は今回のデバイスアートのプロジェクトでは「明和電機名義ではなくて、土佐信道名義でやる」ということで、だから今日は(明和の制服である)青い服を着ていないのですよね。それで出品したのが、主に『エーデルワイス』だったのですが、あれらから僕は、主にファッションとの共通性みたいなことを感じたのですが、その辺はどうなのでしょうか?


土佐:とはいえ僕はアーティストなので、純粋なファッションではないと思うのですが。


八谷:ファッションというか、アクセサリーとか?


土佐:そう……ですね。


八谷:例えばガジェットあるいは電子的なデバイスを、どのように身近なものとしてみんなに買ってもらうかを考えた時、アクセサリーあるいはファッションの一環としてのデバイスアートみたいなものがあり得るのかな? と思ったわけです。下にある『エーデルワイス』の櫛やネックレスとか……売り場としては(ファッションに)非常に近いものを感じたのですけれど、いかがでしょうか?


土佐:あれはですね……とはいえ、八谷くんもシャネルの仕事をやっていますよね。外国の産業のために、日本人としての魂を売っていませんか?(笑)


八谷:実は、リシャール・コラスさんという人がシャネルの社長なのですが、この方がすごくいい人なんですよ(笑)。だから僕はシャネルのためというよりは「この社長さんのために仕事をしよう!」という感じでして……。だから魂は売ってないです。


土佐:話を戻しますと、僕は「高級デバイスアートというものも、あるのかな?」と思っています。つまり、日本人の工芸の細やかさ、日本的なものを大事にする仕方を反映させたデバイスアート、みたいなものです。

 かたや今、銀座に行くと、メイン通りには外国の基幹店ばっかり出店していて、「ここはどこ?」みたいな感じになっている。だからそういう高級ブランドと同じくらい、日本発の外貨獲得=国益になるようなガジェットやテクノロジーアートを使ったグッズが作れないかな? と思って、あのアクセサリーを作ろうと思ったわけです。


八谷:文化庁もいいけれど、経済産業省をもターゲットにしているのですね。


土佐:そうですねえ。


草原:明和電機のウェブサイト上では『エーデルワイス』のことを高級アクセサリーとかって書いていませんでしたか? あの“高級”というのはマジで言っているのか、それとも……。


土佐:高級ですよ! 明和電機が車のヴィッツだとすると、あれは、クラウンですね。


八谷:レクサスじゃないの?(笑)


土佐:いつかはその境地に辿りつきたい、という感じでしょうか。今、おもちゃとしてのガジェットは(僕らも現在作っていますから)ありますけれど、その対極の、ものすごいテクノロジーと芸術性を注ぎ込んだ高級商品も作ってみたい気持ちが、すごくあります。


草原:そうすると折り鶴に勝てる?


土佐:ところが……皆さん、同じような問題を抱えていると思うのですが……テクノロジーを注ぎ込んだ作品は壊れるし、古くなっていくという問題がある。  ただ、このへんは逆に、モリワキさんやクワクボくんに聞いてみたいのですが……先ほどモリワキさんは「10年前は作れなかったものが、今は作れるようになった」とおっしゃっていましたよね。であれば、今作ったものは10年後、どうなっているのか? 今のテクノロジーで最先端のものが今後10〜20年と持つような作品なり製品は、作れないのかな? ということを(PSE法の問題も含めて)お聞きしたいです。


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3.2●“電子デバイス”を使っていて、なおかつ長持ちする作品とは?

モリワキ:この界隈で今、PSE法の問題は「BSEに似ているね」とか、そんな馬鹿みたいな話も含めて非常に議論されていますが、僕はちょっと違っていて、例えば「『ムーアの法則』が永遠に続くのか?」というのと同じような話で、この10年でかなり「来るところまで来た」感じがするわけです。  というのは、「最先端さえ追いかけていれば幸せになれる」とか「コンピュータは早ければ早いほどいい」というような価値観で全てが進んできたのが、90年代だったのではないか、と思うのです。かたやアーティストが今、先端テクノロジーをこうして作品制作に使えるようになったというのは、テクノロジー自体が非常にこなれてきた、という証拠でもあるのですよね。つまり「おじゃる」の世界にやっと入った、って感じですよ。

 だからデバイスアートという言い方が出てきたのも、実はそういう理由であって、進歩し続けていく過程では、決してデバイスアートとは言わずに「最先端ハイテクなんとかアート」みたいに言っていた。そういうふうに階段を急いで上ろうとした人たちがたくさんいたのが、90年代でした。

 今はそうじゃなくて、我々が振り返ってみて、メディアやコンピュータを使うことを前提にしながら「アートって何?」という話を、みんなでしているわけじゃないですか。この間のシンポジウムだって、そうでした。「いよいよそういう時代に入ってきた」というその時に、我々は「ずうっと手作りでやってきた」ということを強調してきましたけど、実はそういったことの重要性が改めて増してきているのではないのかな、と思います。


土佐:クワクボくん、どうですか?


クワクボ:昔、『エビ天』(『平成名物TV・三宅裕司のえびぞり巨匠天国』)というテレビ番組があったじゃないですか。『イカ天』(『平成名物TV・三宅裕司のいかすバンド天国』)は知っています?


八谷:『イカ天』の方が古いよね。


クワクボ:はい、『イカ天』というのは“たま”とか、色々なインディーズ・バンドのブームを起こした深夜番組で、早い話がバンドのオーディション番組ですね。それはすごく大ヒットした番組だったのですが、その放送終了後に同じ時間帯で『エビ天』という、映像作品を募って毎週土曜の夜中にやっていた番組がありました。だけど、出品者の顔ぶれがいつもだいたいいっしょで、「実はこれ、別なところで何年も前に観た」みたいな使い回しの作品が出てきたりして、あまり芳しくなかった記憶があります。というのは、当時はまだ8ミリフィルムが主流の頃で(僕もそういう映像をちょっと作っていたことがあったので)すごく大変な世界だったことが分かるんです。なので毎週放送されるテレビ番組の速度に合うはずがなく、それで不成功に終わった、という前例がありました。

 でも今って、そういう公募番組もいっぱいあって、新しい作品も作家もどんどん出てくるので、それはやっぱりテクノロジーの進歩によって、個人が映像作品を作るのが当たり前になった、ということですよね。たぶん僕は、デバイスを使って何かやるという行為も、もうすぐそんなふうに簡単になって、また裾野が広がるのではないかという気がします。


八谷:土佐君はどうなの? 作品を10年間持たせるための、何か技法や手法みたいなもの、当然考えていると思うのですが。


土佐:究極の話をすると、アナログになっていくのですよ。つまり「修理が可能でなければダメ」みたいな話になっていくと、どんどんアナログな方向になるか、もしくはバイオ? 自己修復とか、そちらの方向にでも振っていかないと……。


モリワキ:ES細胞みたいな、そんなガジェット……むちゃくちゃ大変そうじゃないですか!


土佐:ただ、そういう方向に行くのかな、という気はしています。


モリワキ:八谷君が先ほど「PC(CPU)を使わないから古くならない」と言っていたけど、僕の『レイヨ=グラフィー』も最初に作ってから16年経ったのですが、全く同じ原点に帰って、今回テーブルにしてみたら、みんな「面白いじゃない」と言ってくれた。16年間、何にも古くなっていない。


八谷:それはそれで、おかしいでしょ?


モリワキ:そうそうそう、自分でも「進歩していないのかも?」という気もちょっとしましたが。


土佐:ピアノって、もう変わらない楽器ですけれども、そういう感じで「変わらないデバイス」ってあるのですか? 「もう、ここから先は進まないよ」みたいな感じで完成してしまったもの、とか。


クワクボ:んー、真空管とか?


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3.3●“デバイスアート”の商品化と作家性の匿名化

草原:テーマに関係づけて私もコメントしますと……例えば、あるアイディアや仕組みを商品化する場合、アーティスト自身が「こういうものを作ってみたい」というシンプルな話ではもはや終わらなくなるのを、みなさんそれぞれ体験しているようですよね。例えば「いつまでも同じ品質を保てる」とか「メンテナンスができる」とか、そういう部分が出てきますよね。

 そうやって大量生産できる方向に向かって、今度は大量に売れるようになってくると、別の問題が出てくる。例えば、今だったら「明和電機グッズ」みたいに、誰が作った製品なのかがある程度分かっているうえで買われていると思うのですが、だんだんそれがアーティストの顔が見えなかったり、分からない形で「でも面白いからいいじゃん」という気分で買われてゆくようになる。その辺りはどうなのでしょう? こういうことをやっているアーティストとしては望む方向なのか、それともそうじゃないのか?


八谷:たとえば『PostPet』は、僕のことを全く知らない人が使うという前提で作っていたし、実際『PostPet』の一部のシリーズは、もはや僕らではない人達が作っていたりもしているので、だから僕は「自分の顔が出ていなくてもいい」と思っていました。

 一方、ソフトウェアになってくると、コンピュータのOSに合わせてアップデートしていかなければならないから、寿命も非常に短くなります。今の『PostPet』って、Webメール版になっていたりして、もう全然違うものになっているところもあるから、ますますそういう実感がしています。

 一方で、「もうちょっと自分の名前や顔で……」ということになると、例えば高級路線だったりするのだろうと思います。それは単に値段が高いということだけじゃなくて、「修理も含めて何年間は(作家の)私が必ず手を入れます」というような形で売っていく。その代わり「価格も数千円ではありませんよ」というような方向でやっていく。そうすると、その商品もガジェットではなくて、よりアート作品に近いものとしてやっていく、というやり方は、当然あるのではないかと思うのですが。


土佐:もうひとつの要因としては、たぶん印税のおかげということもあると、僕は思います。コピーライトが小さくても(商品に)絶対に入りますよね。


八谷:でも『PostPet』に関しては、PetWORKsあるいは八谷和彦ってコピーライト表記は入っていないのですよ。それは、最初からそういう契約にしたからで、実質的に印税はいただいているのですが。

 『PostPet』の場合は、最初から大量に作って販売することを考えていたので、そのときにはデベロッパー……つまり開発は僕らでやっているのですが、パブリッシャーであるところ……要するにCDに焼いて販売しているところはSo-netである、みたいな感じにして、全部の権利はソニー系列であるSo-netが持っている方が、例えば類似商品やニセモノが出てきた時、やはり、どことも知れぬ人が著作権者だと、向こう側もナメてくる可能性があるのですが、これが大きいメーカーだと、怖がってなかなかやらないみたいなことが、実際にあるので。


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3.4●“デバイスアート”はアートなのか、デザインなのか?

草原:先ほどの八谷さんの話をおさらいすると、結局のところ、アーティスト個人(あるいはグループ)が責任を持てる部分が作品であって、そこから先の部分は(それがガジェットだろうとソフトだろうと)作品というふうには考えない方がよいのでは……と、そういう感じですか?


モリワキ:八谷さんの発表の中で「アートとデザインの取り組み方の違い」ということをおっしゃっていたじゃないですか。デザインというのはやはり、基本的に作り手の名前は出てこないですよね。じゃあ我々がやっているのは……あえて今日、自分が設計した掃除機を紹介したのですが……あれはアートなのかデザインなのか、そのへんの問い直しだと思うわけです。僕自身の個人的な感想でいうと、それはあまり区別する必要はないような気がしています。大量生産品に関わること、そこで自分が意図したものが製品に反映されること、それを一番重要視して、名前が出る/出ないというのは、ずっと後回しの話じゃないのかな、という気がしますね。


岩田:アートとデザインの関係から言うと、私が作った装置というのも、いわば実験装置なのですが、あれもある人から見ればアートだし、ある人から見ればデザインなのですよね。デジスタのナビゲーターもしている中谷日出さんという方がいらっしゃいますよね。私が《SIGGRAPH》に出品している作品を彼が見て「デザイン、いいですねえ」と言ってくださったのですが、実は私はその作品のデザインについては全然考えていなかったりするわけです。自分が作った装置は、いわばあるアイディアを現実化するために最短距離でバーッと作ったものなのですが、それがある人から見るとグッド・デザインだという。だから「アートかデザインか?」というのも、たぶん結果なのだと思います。


草原:どうですか土佐さん、先ほど言いかけていたことは……。


土佐:印税の話にちょっと戻りますけれど(笑)、いいですか? なぜ僕がそう言ったかというと、そういう部分での収入があるおかげで、たとえアーティストが自分で考えた製品から自分の名前が消えてしまっても文句を言わない、という部分も、実際あると思うわけですね。

 だからもし、それがオープンソースになって、誰もがそれを無料で自由に使えるようになった時には、やはりどこかで(一種の誇りとして)作者の名前を載せたいということが出てくるように思います。ただ、その印税という形で「お金が作者に入ってくるシステム」が今あるので、それで(作家のクレジット云々を)いったん放り投げてもいいかな? と思ったわけです。

 それから、岩田先生のお話を聞いて、モリワキさんの作品を見たときと同じ印象を受けたのですが、やっぱり作っているものが面白いというか、技術がそのままむき出しになっている状態が面白いので、デバイスアートは、いわゆる西洋的な……何らかの主義主張があって、そのアンチ、アンチで転がしていくような、そうしたアートの潮流ではなくて、現象そのものがアートなのだ、と思っています。ゆえにアーティスト自身が考えているよりも「面白くて、なおかつアートになること」はあり得ると思っています。


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3.5●最後に各自から……

草原:そろそろ終了時間が近づきました。こういうシンポジウムはいつも佳境に入った頃合でだいたい時間切れになりますね。今の「アートとデザインの話」はものすごく大きい問題だし、意図しなくて必要や目的に合わせることでデザインが洗練されていくこともあるし、最初からデザインとして作られる場合もあるし……、その辺もなかなか簡単には言えないところだと思いますが。最後に一言ずつ、これだけはどうしても言っておきたいとか、言い残したとかあったら、お願いします。では、クワクボさんから……。


クワクボ:では、今日はあまり発言しなかったので……。「アートかデザインか?」とか「アートとは何か、デザインとは何か?」というのは、けっこう僕がシンポジウムに出席した時に(最終的に)墓場のように、どうしてもそこに行きついてしまいがちなところで、結局そこでオシマイ、みたいなことがよくあります。

 それで、僕が「こうかな?」って思ったのは、あるデザイナーがいた場合、その人がプロフェッショナルであることが往々にして価値を持つのですが、アーティストというのは逆に、アマチュアであり続けることが価値を持つ局面があるのかもしれないな、ということです。何か方法論的にものを組み立てていっていいものを作るやり方と、そういう方法論からはみ出しちゃうことでいいものを作るやり方があるので、そういうところがけっこう大きな違いなのかも……と、最近思っています。


草原:例えばアーティストは、エクスぺリメンタルであることに価値がある、というあたりですね。次に土佐さん……は、後の方がいいですか? では八谷さん、先にお願いします、


八谷:じゃあ僕は、「アートかデザインか」という話は長くなるので止めておくとして、お土産として(先ほどお話しした)飛行機を自作するプロジェクト『OpenSky』のペーパープレーンを持ってきました。これは、先ほど土佐君が話した折り鶴のように、この通りに作ればちゃんと飛ぶ紙飛行機になるものでして、航空力学をかじった人は「メーヴェを実機で作っても飛ぶわけないでしょ」とか言いがちだったりするのですが、「いや、そんなことないです」ということを立証するために作ったものです……これが手元に3つあるので、僕とじゃんけんをして勝った人3人にさしあげたいと思います。照明を一度点けてもらえますか……で、欲しい人は立ってください(笑)。いきますよ。“あいこ”は負けですよ……。じゃんけんチョキ! グーだけ残ってください。いきますよ、いいですか、じゃんけんチョキ! もう一度チョキでした。まだ残っていますね。じゃんけんパー! チョキの方、ちょうど3人ですか? おめでとうございます(手前で景品を手渡す)。


草原:ちなみに、階下で展示されている八谷さんの作品『空をみるための望遠鏡』。あれを覗くと、メーヴェが見えるんですよね。


八谷:そうですね。あれは3年前に作った一番最初の試作機が写っています。もしよかったら見てください。以上です。


草原:あと、今度の週末に『Psycho Communicator System』がもう一回実演される……ということもありましたね。じゃあ、土佐さん、よろしいですか?


土佐:最近、日本の文化というと、アニメとかマンガとか。わりと2Dの……スーパーフラットと言われるような、平面的なものがすごく世の中に出ていっていますが、一方でこうしたデバイスアートみたいな作品……日本の工芸技術、細やかさや可愛らしさを持ったオブジェを作るのも、実は日本人は得意なのですよね。やっぱり今、「マンガ、マンガ」って、あまりにも日本の評価がそっち方面に傾きすぎていて、子供っぽくなりすぎていないかな? と、そんな気が僕はしています。なので、職人性とか、よりアダルトで深みのあるもの作り、そして芸術性というものも、これから出していかないことには、「日本=秋葉原=オタク」という図式があまりにも結びつきすぎちゃって、最近、日本がスッパい感じになってしまっているので……もう少しそれを何とかしたいと、僕は強く思っているので、このデバイスアートにぜひそうなってほしいな、と思います。


草原:ありがとうございます。では、モリワキさん。


モリワキ:僕がシメじゃないですよね。大丈夫ですよね、と聞いたのは……この「デザインなのか、アートなのか」っていうことは大変な問題なのですよね。


草原:実はもうひとつ、「アートなのか、エンターテインメントなのか」という問題もあったのですが、今日はそちらの方まで話が行かなかったですね。


モリワキ:そうですね。だから、今日の僕の発表の中でも、例えば小林幸子の衣裳は別にアートだとは思っていないのですが、そういうものを手掛ける傍ら、僕は大学でアートを教えていますので、「アートなんかどうでもいいよ」という言い方をしちゃうと非常に語弊があって、これで終わっちゃうとまずい。でも本当のところは「どうでもいいのではないか」という気は、僕もしているんですよ。ただ「アートなのかデザインなのか」という問題は、このメディアアートをやっていく中で、「お前のはアートじゃない!」みたいな反撥の理論も含めて、そういう話が出ること自体は、非常にウエルカムです。つまり、そうすることでアートというものを問い直すきっかけを我々は提供しているのだと思えば、それはそれで非常に大事なことですから。

 テクノロジーが発達して、我々はそれを興味あるもの、面白いものとして、素直に反応しているのが基本的な姿勢だと思います。「プレイフルだ」って先ほど言っていましたけれど、そういうことで様々な方面に進出をして、様々な活動をしているのが現状ではないかと思います。

 とすれば、そこでそれが「アートであるのかデザインなのか」ということは、もはや重要な問題ではなくて、活動することの方がより重要なことになってくるわけです。ですので僕の場合、ファッションのところに行ってみたりとか、プロダクト製品にも首をつっこんでみたりとか、あらゆることをやって、「お前はいったい何がしたいのか?」と聞かれるわけですが、それは興味本位のまま、僕自身が「面白い」という感覚を信じるがままにやっているわけです。今、こうしてメディアアートが注目されていますが、それが原動力になっている部分でもあると思います。


草原:では、最後に岩田先生、お願いします。


岩田:私がデバイスアートを提唱した時に、強力なモチベーションだったのはやはり、メカニカルな動きをするものだったのですね。メカって、すごく面白いんです。だけど、今では電子デバイスの方に走っちゃっていて、メカがあまり使われない。それはどうしてかというと、やっぱりメカは壊れるんですね。それから、少しずつ磨耗します。そういう宿命があるので、メカを嫌う動きがあるのは事実です。

 でもやはり何といっても、メカの楽しさを伝えたい、というのが私の中ではモチベーションとしてあるわけです。私の作品は全てメカで、メカメカしい動きをします。それを苦労しながらメンテナンスしている、という状況なのです。

 そのデバイスアートの未来を伺うひとつの手がかりとして、最近、高級な機械式時計が、ちょっとしたブームになっているのを、みなさんご存じですか? すごく高い時計が売れたりするわけです。時間を計るだけだったら、タダ同然の道具でもできます。もちろん今では携帯電話にも(時刻表示は)付いていますし……。ところが、電気的ではなくて、全て機械のエネルギーを使って等間隔で時を刻む、超複雑メカニズムの高級時計が数千万円の値段で売れているわけです。宝石をちりばめた高級時計というのは数百万の値段がついているのに対して、一桁高い値段でハンドメイドの塊が売れているという現象は、私にとっては嬉しいことなんですね。

 時計というのは、すでに百何十年の歴史があって、メンテナンスの技術も確立しています。実際、そういう時計は、半年に1回とかオーバーホールするわけです。でも、それを楽しんでやる人が世の中に少なくないというのは、私にとっては大変嬉しい話で、デバイスアートとして生き残るひとつの形態として、そういう考え方もあり得るのかな、と思うわけです。なので、明和電機の土佐さんの『エーデルワイス』も、その境地に達していただけると大変嬉しいなあと思います。


草原:なにしろ扱っているテーマが大きいので、とても結論には至らないだろうけれど、今日は色々な問題提起ができれば、と考えていたのですが、この調子でいくと、機会があればまた来年もこの続きができそうですね。

 私が感じていることは、メディアアートとは、もともとアートの一番先端的な部分で、変化しつつある社会に反応しつつ、かつ、メディアアートをやっている人が、逆に社会の方に働きかけているような分野だと思うわけですね。その中で、分類不可能という話もありましたけれども、そういう定義できない様々な分野、既成の分野にまたがった活動が出てくるのは当然のことだろうと思うし、今までもアートの世界における最先端の部分は、そのとき常に「これはいったい何と呼んだらいいんだ?」と言われ続けてきたと思うのです。ですから、これからも皆さんにそういう作品をどんどん作っていただけたらと思います。

 今日は皆さん、大変遅い時間までありがとうございました。パネリストの方々にどうぞ盛大な拍手をお願いします。(拍手)それではこれで「デバイスアート・シンポジウム」は終了させていただきます。どうもありがとうございました。

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